満州 仙台村
80年間の記憶

1942 - 2022

仙台から満州に渡った人たち

1936年、国策としての「満蒙開拓」が始まり、日本政府は20年間に100万戸を満州に移民として送ることを計画した。

しかし1937年の日中戦争、1941年の太平洋戦争開戦により国内では軍需産業に多くの人手が必要となった。元々満蒙開拓は満州・朝鮮地域の対露防衛に加え、農村の過剰人口を削減する目的があったが、軍需産業の隆盛によって農村から満州に渡る人は多くなく、計画は思うように進んでいなかった。

一方で都市部では欧米からの経済封鎖などに伴い、多くの商工業者が「不要不急の職」として廃業・転業を迫られていた。伊達政宗の時代から続く城下町・仙䑓も例外ではなく、南北に走る奥州街道、東西に走る大町通りには古くから続く商工業者が軒を連ねていたが、少なくない廃業者を出した。

このような事態を受けて政府は1940年に、失業者などを「転業開拓団(帰農開拓団)」として満州に送出することを推進。仙台市では市と県の職業調整課が中心となって「仙台村」送出に向けた動きが起こった。

入植地となったのは、当時の浜江省五常県沙河子(当時は「さかし」と呼んだ)。現在の黒竜江省にある小さな村である。ハルピン(現在の黒竜江省の省都)から沙河子までは、最寄りの山河屯まで鉄道で4時間、さらに森林鉄道で4時間を要した。

仙台村開拓団の先遣隊。

1942年4月には先遣隊としてK団長以下25名が渡満。その後1943年5月末の第五次本隊まで103戸が渡満。現地採用の4戸を加え、総勢107戸・415名が入植した(一部には山形県や東京都からの入植者もあった)。

実際に満州に渡った人の職業を見ると、食品・衣料・雑貨等の小売商や、加工業、染師などの職人などが多い。農業を生業としていたのはわずかに5戸。農業経験のない彼らは、宮城県農学寮(現在は下愛子・宮城広瀬高等学校になっている)で数ヶ月間の農業訓練を受けて満州に渡った。

仙台村の西側には拉林川が流れ、周囲を山々に囲まれていた。この景色を広瀬川や青葉山と重ね合わせ、故郷仙台を懐かしむ人も多かった。

仙台村の平面地図が書かれた「仙䑓市公報」(昭和16年6月1日)。現在の「市政だより」にあたる広報物。この日の仙䑓市公報は、仙台村の様子を伝えるとともに、第6次本隊への参加を呼びかける内容となっている。

1945年8月 終わらなかった戦争

1945年2月のヤルタ会談で、対日参戦と引き換えに樺太・千島列島などの領土をアメリカに提示されていたソ連は、1945年8月9日、日ソ中立条約を破棄し満州に侵攻を開始した。この条約は1941年に、5年間の有効期限をつけて成立したものだったが、1945年4月にはソ連が条約延長をしないことを通告していた。

満州地方の守備のために設置されていた関東軍は、事前にソ連軍の侵攻を予測していた。しかし関東軍は満州を放棄し南下、朝鮮半島の防衛を第一目標とした。この撤退は現地にいた開拓団には一切知らされず行われたものだった。

満ソ国境付近に配置された開拓団の多くは、ソ連の急な侵攻により混乱に陥り、わずかな身の回りのものだけを持って大都市目指して徒歩での避難を余儀なくされた。その中でソ連軍や現地住民の襲撃に遭ったり、自ら集団自決した開拓団があったことは言うまでもない。

国境から離れた仙台村にもソ連侵攻と他開拓団の悲惨な状況は伝えられていた。開戦時には鉄道沿線の山河屯に集結するよう指令を受けていたが、連絡・移動が困難な状況にあり、各部落から団本部に集結した。幸いなことに仙台村はソ連の侵攻を受けなかった。

8月16日夕方、五常県署に出頭していたK団長が帰団。そして団員に日本降伏の旨が伝えられた。思いもしなかった知らせに混乱する開拓団。しかし団長は沙河子にとどまり、情勢を伺うことを決めた。

終戦直後、中国国民党の蒋介石は「日本人の財産は保証する」という方針を固めた。しかし開拓団民と現地住民の関係性は、戦前のそれから大きく変化した。そもそも開拓団が入植した場所のほとんどは、元々現地人が農耕をおこなっていた土地であり、それらを非常に安い値段で強制的に買い取ったものだった。わずかな金を掴まされて住まいを追われた人も少なくなかったのである。それらの不満が負けた側の開拓団に向けられるのは、 まさに時間の問題だった。

9月11日には仙台村の北沙河子部落が匪賊の襲撃を受けて団本部に避難。その本部も翌12日の午前7時に大規模な襲撃を受けた。国民学校の訓導(正教員)だった大泉利治氏は、当時の状況を次のように振り返っている。

暴徒は手当たり次第に掠奪をはじめ、立ちはだかる者には容赦なく大鳶口を振り下ろしてくる。逃げ惑い、泣き叫ぶ女や子ども達。日本人と見ると暴徒はけもののように絶叫して群がり、打ちのめし、身ぐるみ剥ぎとっていく。一瞬のうちに阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されてしまった。

この襲撃で多くの者が着ていた服を奪われ、ほぼ全裸体となってしまった。匪賊に荒らされ、また襲撃を受けるかもしれない本部に留まることもできず、混乱の中いくつかの集団となって近隣の開拓団に助けを求め歩き始めた。

仙台村の近くには上金馬開拓団(広島県世羅郡内より渡満)があり、ほとんどの団員はそこを目指した。しかしその道中にK団長は銃殺された。誰が撃ったのかはいまだにはっきりしない。戦後の1950年に宮城県が作成した資料には、一連の襲撃で少なくとも39名が亡くなったという記録がある。

鈴木文男著「宮城県開拓団の記録」(あづま書房)。仙台村についてのタイトルページ。

逃避行と越冬

襲撃を受けた仙台村開拓団のほとんどは上金馬開拓団にたどり着いた。しかし上金馬開拓団はすでに玉砕(集団自決)することを決めており、支援は受けられない状況にあった。そのため仙台村開拓団はわずかな握り飯と衣類をもらい、隣の下金馬開拓団(山口県玖珂郡桑根村より渡満)に避難した。

当時は山河屯や舒蘭(吉林省)などの近隣都市へ向かう道の治安が悪く、帰国の見通しは全く立たなかった。しかし下金馬開拓団の団長の好意もあり、仙台村の団員は食に困ることのない生活を送ることができた。だが秋になって「日本人の財産は保証するから、元の開拓団に戻って収穫にあたれ」という指令が国民党から出された。仙台村にも舒蘭県・五常県両方からこの通達が届き、逃避行の始まりとなった沙河子に戻ることとなった。

沙河子に戻ることはできたものの、仙台村開拓団では住居と衣類の不足が深刻だった。終戦以前に彼らが住んでいた家屋のほとんどは、入植前に現地住民から安く買い上げたものである。開拓団が沙河子を離れてからは現地の住民が再びそこに住むようになっていた。そのため一つの家屋に5家族あまりを割り当てて住むこととなった。

そのような劣悪な生活環境の中で栄養失調も重なり、昭和20年11月ごろから回帰熱が流行した。これはダニやシラミによって媒介される感染症で、40度を超える高熱を発症し、1週間余りで死んでしまうという病気だった。入植に合わせて開拓団周辺には病院などが整備されていたが物資不足が激しく、まともな治療もできないまま多くの団員が命を落とした。大泉氏は次のように回想している。

そのうちに益々蔓延して手のほどこしようがなくなった。毎日の様に危篤者の名前が告げられる。言ってみると、臨終の呼吸である。早速若い者に墓の穴を掘ってもらうようにたのむ。部落の東の湿地帯のところに行って三十センチ位の穴を掘るだけであって、棺箱も白衣もない姿で葬るだけである。

仙台を出発して以来多くの苦楽を共にした団員が死んでゆくのを手の施しようもなく見るしかなく、死んだ彼らを葬ることすら十分にできなかった。そして多くの子どもが孤児となり、生活のために中国人の家族に引き取られたりする者も少なくなかった。

中国東北部の典型的な民家。藁や泥を固めた造りだが、これでマイナス20度にもなる冬を越さなければならない。現在は炕(朝鮮半島ではオンドル。台所の熱風を寝床の下に通す床暖房)を備えた家がほとんどである。

引揚げと残らざるを得なかった人たち

終戦から1年余りが経過した1946年8月13日夕刻、突如仙台村開拓団に引揚命令が下された。翌14日から16日までの3日間に山河屯へ集合せよ、という内容である。待ちに待った知らせであったが、日数の余裕はない。皆夕飯の準備を後回しにして引揚準備に取り掛かった。

しかしこの引揚命令が唐突だったがために、日本に帰国できなかった子どもたちがいた。大泉利治氏の妻、しめよは次のように回想している。

実は日本人の孤児で現地人の家で預かっていた人たちが、引揚の命令があまりにも突発的だった為に乗車の時間に間に合わなかったのもいたり、また遠くの方に預けられた子供に連絡がうまくつかなかったりしたとの事でした。それから駅についてから子供が隠れてしまったか、預かった人が帰すのがいやになって隠してしまったとかの事でした。

このとき引揚列車に乗ることのできず中国に留まらざるを得なかったのは少なくとも31名。その中には五常市にあった開拓女学塾の学生で、中国共産党の八路軍に徴用されたもの含まれている。彼らはのちに「中国残留孤児・婦人」と呼ばれることになる。ソ連軍の侵攻を免れ開拓団に残ることができたが故に起こった悲劇。一つの開拓団でこれほどの残留者を出した例はほとんどないと言われている。

なお、明らかな記録が残っている昭和56年時点で連絡が取れた孤児・婦人はわずか9名にとどまり、残りの20人余りの消息は未だ不明である。

一方仙台村を出発した一行は山河屯で1ヶ月ほどを過ごし、9月12日に屋根のない貨物列車に乗って山河屯を発った。列車は平安・水曲柳(長野から渡った水曲柳開拓団が入植していた地)・舒蘭を通過し南下。しかし当時内戦状態にあった中国国民党と共産党の最前線となっていた老爺嶺の手前で列車を降り、徒歩での進行を強いられた。老爺嶺から引揚地・葫蘆島(現在の遼寧省)までは1週間。衛生環境は劣悪で、濁った水で炊いた米を食べ命を繋いだ。他の開拓団ではコレラが発生したものもあったという。

葫蘆島から日本へ向かう船は、これまで乗った、横になる隙間もない貨物列車や木材運搬列車とは比べ物にならないほど快適だった。祖国・日本に帰る船の中を、大泉利治氏は次のように回想している。

夕食に乾パンとみそ汁。何日ぶりでこんな美味しいものをいただいただろうか。日本のみそ汁の美味しいこと、本当にふるさとに帰ったような気がした。夕食後に家内や子供を連れて甲板に上がっていった。波のおだやかな湾内を舟艇はすべるように走っている。水もすき通っていて魚の群れがよく見える。コロ島の街も明るく見える。これで中国も見おさめかとじっと見ていた。

船旅の途中に死者を出すこともあったが、10月20日に船は佐世保港に入港。22日朝に列車で仙台へと向かった。

昭和21年10月27日午前8時40分、一行を乗せた列車は仙台駅に着いた。役人や町の人々に見送られて出発した日から5年余り。言葉に言い尽くせない辛酸を舐め、多くの犠牲を出した仙台村開拓団の生存者209名は、僅かな衣服と南京袋を持った姿で故郷・仙台の地を再び踏んだ。

昭和21年10月28日の河北新報朝刊に載った記事「がらくた入れた南京袋を背に 仙䑓村の残留者引揚ぐ」には、亡くなったK団長の代理を務めた大泉と小林仁治の言葉が掲載されている。

六百名のうちわづかにこれだけしか連れて來れなかつたのはなんとしても申し訳ない次第です、何しろ病氣しても薬品はなし、死んでゆくのを手をこまねいてみてゐるより仕方がありませんでした、南京袋一つあつたら助かるかも知れぬといふ病人もたゞ見殺しに來ました、今後のことは関係方面と折衝して決めようと思ひます、なにしろ家もみよりもないひとが多いものですからー%

仙台村開拓団の被害全容は未だ明らかになっていない。1950年の宮城県が作成した資料には終戦時に653名が在籍していたとあるが、1969年の「仙台市史」にはおよそ1000名が在籍していたと記されている。帰国を果たした人数についても、終戦直後に引揚げることができた209名以外については正確なことは誰にもわからない。なお、団員の一部は川内追廻地区(仙台城址と広瀬川の間にある)に身を寄せた。現在は仙臺緑彩館と公園が建設中で、当時の面影を見ることはできない。

仙台村のあった沙河子から山河屯に向かう道中にある小さな村。引揚列車に乗った開拓団員も同じ空を見ていたのだろう。

海を隔てた日本と中国

終戦後、満州は侵攻してきたソ連軍に支配されていたが、ソ連軍は日本の残留民に対する引揚措置等を講じなかった。また同時に日中戦争勃発から停戦状態にあった中国国民党・共産党の内戦が再開され、満州地方は混乱に陥っていた。その中で満州に残る居留民の引き上げを主導したのはGHQであったが、引揚港は葫蘆島に限られ、仙台村開拓団のように多くの残留者を出すに至った。これは1945年8月20日に大本営が決定した「現地土着政策」、9月に外務省が発表した満州に残る民間人を現地に定着させる指令の影響を受けたものであった。

そのような状況を受けて中国・日本両国で民間による日本人の救済・引揚支援のための団体が立ち上がったが、日本政府は積極的に関与しなかった。1949年4月末になってようやく衆参両院が引揚促進の決議を出したが、10月1日に中華人民共和国が成立し、10月3日に舞鶴に入港した引揚船を最後に集団引揚は中止に。中国共産党政府は1952年に「日本人居留民の引揚について、日本側が船を準備できれば、帰国の援助は惜しまない」という内容の放送を行ったが、日本政府がその呼びかけに応じることはなかった。その後は日本赤十字・日中友好協会・日本平和連絡委員会と中国紅十字会の協定に基づき民間レベルの引揚が細々と続けられた。

中国紅十字会は中国残留日本人調査人名簿や遺骨名簿を発表するなど、引揚に積極的に関わっていた。しかし1958年5月に長崎国旗事件が起こり、中国がこれに抗議。しかし当時の岸信介首相は中国政府の抗議を無視する発言を行い、台湾政府との友好を強く主張した。これによって中国紅十字会は「岸政府が中国人民を敵視することを継続するので、本会は里帰り日本人に対する援助をしばらく中止する」という通告を発した。これによって引揚の最後の望みの綱が完全に断たれてしまったのである。最後の引揚は、7月13日に舞鶴に入港した第17次船だった。

最後の引揚船が帰国した翌年の1959年3月3日、「未帰還者に関する特別措置法」が公布された。これは戦争による外地未帰還者について、国が調査を行なってもその状況がわからない1万3,600名余りについて、「戦時死亡宣告」を行い、戸籍を抹消する措置であった。当時政府は中国残留日本人の存在を把握していたが、主体的な引揚事業・調査を行うことなく、このような措置に踏み切ったのである。これ以降日本に引揚げる際には日本人ではなく外国人として入国することになり、残留者の引揚が一層困難になった。しかし幸運にも1965年にはT氏(当時32歳)が帰国を果たした。

1972年の日中国交正常化以降も、日本政府は1959年の特別措置法を根拠に残留日本人の問題に積極的に関与してこなかった。そのため残留日本人の肉親探しや帰国の支援は、民間のボランティアや残留日本人の家族らが主となって進められた。1975年になってようやく厚生省(現在の厚生労働省)は肉親探しの公開調査を開始。しかし残留日本人については「入国に際しては原則として外国人として取り扱う」という方針が維持された。1981年には残留日本人の訪日調査が行われ、多くの孤児の身元が判明したが、同時に養父母を含めた中国の家族との離別など、新たな問題が表面化。この問題を受けて中国側が訪日調査に「待った」をかけるほどの社会問題に発展した(1982年。翌年に再開)。

この時期には終戦時子供だったS氏(終戦時7歳)やC氏(終戦時11歳)などが、親族を頼りに帰国している。S氏は実家がわからず、1966年に身の上を記した手紙を書き、宛先を「日本国」とだけ書いて送った。その後厚生省を通じて仙台の叔母から連絡があり、1984年に家族と共に帰国。しかし弟のAさん(終戦時3歳)の行方は未だにわかっていない。

仙台市に帰ってきた人たちの多くは、親族の家や太白区袋原に造られた公営住宅などに身を寄せた。

「未帰還者に関する特別措置法」の原文(国立公文書館 CC0 1.0)。この一つの法律により、残留日本人の運命は大きく変わってしまった。

「祖国は冷たかった。」

1973年から国費での帰国・一時帰国が始まったが、国費の支給を受けることができたのは残留者本人とその配偶者、18歳未満の子供に限られていた。そのため年長の子供が親と共に日本に渡るためには、当時の彼らにとって高額な費用を負担しなければならず、帰国を断念したり、離別を迫られる家族が後を立たなかった。

また1959年の特別措置法によって残留者は一方的・画一的に日本国籍を剥奪されていたため、入国・永住のためには「身元保証人」が必要とされた。残留者とその家族を扶養することに経済的負担を感じる親族も多く、ようやく見つかった日本の親族に身元保証人になることを拒まれるケースも多々あった。また身元保証人を得ることと引き換えに、劣悪な環境での労働を余儀なくされる者も多くいた。肉親が見つかってもその帰国をめぐって家族が再び引き裂かれる事態が常態化したのである。

経済的・文化的に孤立を深めた帰国者たちに対して、政府は何も対策を行わなかったわけではない。1984年には中国帰国孤児定着促進センター(現在の中国帰国者定着促進センター)が所沢に設置され、6ヶ月間の集中的な研修が行われた。その方針は次のとおりである(研修内容は中国帰国者支援・交流センターHP「同声・同気」で見ることができる)。しかし公的な支援を受けられたのは国費帰国した帰国者とその家族に限られ、自費帰国した者は対象外だった。

まだ日本での実生活に入っていない入所者に対して行われる6ヶ月の集中研修は、定着後の生活、学習にスムーズにつなぐための研修であり、予備的集中研修という性格をもつものです。当センターでは、この研修の目標を次のように表しています。 日本での生活への自信と意欲、それを裏付ける基礎知識、基礎技能を身に付ける。

また帰国者の多くは単純労働に従事せざるを得ず、過度な労働で体を壊しても言葉の壁や給料が下がるなどの問題から適切な医療を受ける機会が極めて少なかった。そのような状況も重なり、帰国者の多くは生活保護を受給しながら命を繋いでいた。特に高齢の帰国者は、本来年金が受け取れる年齢であっても、中国にいた期間は年金の保険料を納めていないため「欠格期間」と見做され、ごくわずかな額しか受け取ることができていなかった。

そのような状況が続き、2000年ごろから全国各地の地方裁判所で、国を相手取った賠償請求訴訟が起こった。一連の裁判で原告側(帰国者側)が主張したことは、第一に戦中・戦後において日本政府が開拓団の避難・引揚について必要な措置を講じなかったこと、第二に残留者の帰国後に必要な支援(経済支援や日本語教育等)を行わなかったことの2点である。この訴訟は残留日本人の9割近くが原告として参加した。それだけ帰国者の生活が苦しかったことが窺える。

ほとんどの裁判所では日本政府の政策不備を認めたものの、国家賠償法上違法には至らないとして原告の請求を退けた。唯一神戸地方裁判所のみが賠償を認める判決を下している。原告側は上告を検討したが、裁判に5年もの年月がかかり帰国者の高齢化が進んだこと、日本政府が「新支援法」を検討し始めたことを受けて上告断念・提訴取下となった。唯一「完全敗訴」となった東京地方裁判所の裁判については原告側は上告し、2009年に最高裁で上告が棄却され一連の裁判は終結。控訴審だった東京高等裁判所での判決は、他の地方裁判所と同じく国が政治的義務を怠ったことを認定したが、ここでも「違法とするには今一歩届かなかった」という判決が下された。

東北地方での国家賠償請求は他の地域から遅れを取り、仙台市内の残留孤児5名が2005年に仙台地方裁判所に提訴。彼らは1984~1995年の間に帰国した人で、終戦時は2~7歳。日本語を話すことができないため定職につけず、うち3名は生活保護を受給していた。原告団長のK氏(当時64歳)は、「政府は私たちを見捨てた責任がある」と訴えていた。

多くの帰国者が生活に限界を感じ、国を相手取った裁判を起こした2000年代初め。神戸の原告団に参加していた一人が、こんなことをメディアに対して言った。

祖国は、冷たかった。

終戦の混乱によって祖国に帰ることができず、中国で暮らした数十年間。日本政府も引揚政策を民間に委ねた。そして帰国してからは国からの援助を十分に受けることができす、苦しい生活を余儀なくされた。地域社会から孤立することもあった。そんな長く辛い経験が、この一言に詰まっている。

現在は「新支援法」のもとで残留孤児本人や配偶者に対しての経済支援が行われているが、それでも多くの人が生活保護受けて生活している。そして「帰国者2世」にあたる人々の7割も、「貧困の連鎖」により生活保護に頼った生活を強いられている。日本国民全体の生活保護受給割合(1.64% 令和1年)、外国籍世帯の受給割合(3%程度)と比べ物にならないほど多い。このような状況から2021年には中国帰国者の会、日中友好協会福岡県連が残留孤児2世への公的支援を求める請願活動を行なっている。

2022年、仙台。

今年2022年は終戦から77年を迎える。仙台市から先遣隊25名が満州に渡ってからは80年が経つ。この80年間の間に、多くの人が日本と中国、満州の間に翻弄された。それを言葉にすることなく、中国の大地に埋もれていった物もいる。一方故郷仙台に戻り、新たな生活を始めた人も多い。

T氏は帰国後、太白区中田で建設業を立ち上げ、その傍ら帰国した人たちの職業・生活相談を積極的に行っていた。また厚生省から生活指導員を委託され、仙台市のみならず県内の帰国者の支援を続けて来られた。T氏を代表とする元開拓団の有志の会は、1984年に仙台村のあった場所に慰霊碑を建立した。そこには現地で命を落とした300名近い開拓団民が葬られている。戦後の混乱と疫病によって中国の大地で命を落とした人々の魂に、少しでも安らぎは訪れただろうか。

2011年には仙台市営墓地「いずみ墓園」に中国帰国者の遺骨を納められる記念墓碑が建設された。碑文には残留孤児らが歩んだ壮絶な歴史が刻まれているという。この墓碑建設にはS氏も「中国帰国者記念墓碑建立協力会」のメンバーとして実現に奔走した。

2022年の今日、仙台村開拓団に住んだ人の多くはすでに帰らぬ人となった。引揚者の世話に奔走し、開拓団の慰霊に毎年中国に足を運んでいたT氏も亡くなった。残留孤児の多くが住んだ袋原住宅も2000年ごろ撤去が始まり、現在は新たな住宅地となって当時の面影はどこにもない。

当時の記憶が薄れていく中、仙台空襲のあった7月10日から毎年行われている「戦災復興展」では、仙台村開拓団の生活と引揚を描いた紙芝居「ああ・・・満州仙台村 ー仙台村開拓団員物語ー」が作者の百束たき子氏によって披露されている。

仙台村の中心人物として開拓団を支えた大泉利治氏は、戦後出版した「あの雲に乗って帰りたい 仙台村開拓団の記録」の中で、仙台村を襲った悲劇と、今後についての想いを吐露している。

...そこでわたしはこの一端を記録にとどめ、やがて史上から消え去るであろう事実を克明に伝え、戦争のむごさ、悲しさ、はかなさを今後に生きる人々の戒めとし、二度とこのようなあやまちをおかさないようにとの願いから筆をとった。

...この記録で、感傷的に悲劇を誇張する気持ちは少しもない。あの悲劇の真相を知ってもらい、今日尚新しい問題としてとりあげられている中国に残留している婦女子や、異国の丘に放置され、散在している団員のみ霊を思うとき、戦争はもうすでに終わったが、孤児の問題解決と墓参、遺骨収集の終わらぬ限り、戦争は終結したとは言われない。

大泉利治著「あの雲に乗って帰りたい 仙台村開拓団の記録」あづま書房。大泉氏は病に冒されながらも妻と共にこの本を書いた。仙台村について記された数少ない書籍であり、最も多くの情報が記されている一冊である。

参考文献・引用資料

書籍等

仙台市「仙䑓市公報 1942年6月1日 號外」1942年6月1日

鈴木文男「宮城県開拓団の記録」あづま書房 1977年

宮城県「開拓団実態調査表」 1950年

大泉利治「あの雲に乗って帰りたい 仙台村開拓団の記録」あづま書房 1981年

仙台市史編纂委員会「仙台市史 続編1」1969年

仙台市史編纂委員会「仙台市史 特別編4」1997年

仙台市史編纂委員会「仙台市史 通史編7」2009年

新聞記事

河北新報「がらくた入れた南京袋を背に 仙台村残留者引揚ぐ」1946年10月28日

毎日新聞「中国残留孤児(仙台市) 帰国の兄、弟を待ち続け」 1998年12月12日

毎日新聞 「旧満州「仙台村開拓団」2世ら、慰霊の碑を移転--中国・黒竜江省五常市」 2001年8月15日

朝日新聞「老後憂う 中国残留孤児、国に損害賠償求め提訴」 2004年12月14日

毎日新聞「中国残留孤児:「生きる権利奪われた」 国に1億6500万円の損賠提訴」2005年5月20日

河北新報「中国帰国者の墓碑完成/仙台・いずみ墓園で遺族ら開眼式」2011年12月21日

読売新聞「戦争 体験談話や紙芝居 仙台空襲77年 戦災復興展」2022年7月10日

メディア資料

国立公文書館所蔵「未帰還者に対する特別措置法」

せんだいメディアテーク「ああ・・・満州仙台村 ー仙台村開拓団員物語ー」

満州国民政部総務庁「満洲帝國新行政區劃圖」1934年

その他

中国帰国者支援・交流センターHP「入所者に対する研修ー日本語・日本事情の研修ー」

東京地方裁判所民事第13部「平成13年(ワ)第26261号損害賠償請求事件 判決」2006年

藤沼敏子「年表 : 中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開」中国帰国者定着促進センター「紀要」第6号 1998年5月29日

NPO法人 中国帰国者の会HP

※ 2023/08/14 : 満洲開拓資料館の『個人情報保護規定・個人情報公開に関するガイドライン』に適合するよう内容を改変しました。

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